株式会社メティス metis

白くなる前のあの野菜

この野菜の画像を見て「白菜」と即答できる人はたいしたものだ。
私なんぞは、小松菜、ほうれん草からはじまって、あれやこれやと思いつくままあげていっても、白菜までは行きつかない。まだこれからという成長過程にある若い白菜で、これがあの白菜に育ち、我々の食卓にのぼってくるわけだ。
なんで私がこの若い白菜のことを取り上げるかというと、いくつかの驚きと考えさせられることがあったからです。

この若い白菜、とある農家の人にいただいたものなんですが、もともとは破棄されてしまうものだった。
白菜を植える。このくらいまで育ったところで、形が良く強い白菜とそうでないものに分けて、後者を間引く。後者の白菜は結構な量はあるそうで、それらをどんどんと抜いていく。見た目は小松菜にしか見えないのだが、この若い白菜も美味しいのだが、農家の人は自分たちで食べる以外は捨ててしまうそうだ。

すぐにしなびてしまうし、形に合わせてそれらをひとまとめにして、泥を洗い流し、さらに市場に運び込まなくてはならない。それはそれはたいそうな手間なそうで、間引きしたら、そのほとんどを捨ててしまうわけだ。
「美味しいんだよ。騙されたと思って。水に浸ければ生き生きとするから」
そう言われて、しなびた間引かれた若い白菜を持ち帰った。そして、台所で水に浸けたところ、10分もしないでこの通り。それがこの写真の白菜だ。

鍋、サラダ、炒め物と白菜同様に何にでも使える。たかが白菜、されど白菜だ。

この一連の流れには、考えさせられることがたくさんある。価値を生むもののために、間引かれるものがある。
しかし、間引かれたものも水を与えることで、青々しく瑞々しく輝きを発する。そして、このように市場に流れている白菜とは違った味で楽しませてくれる。人、モノに限らず、経済活動をする中で、どうしても間引く、選択肢から外すという行為を繰り返してきている。それはそれで仕方がないことなのだが、それが常態化してしまって、捨て去ったものに対する敬意を忘れてしまってはならない。
間引いたモノの中に、実は未来への礎が眠っていたりするものだ。

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