株式会社メティス metis

古戦場が学びの場

私も経営者のはしくれであるから、動き出す出さないにかかわらず、何かしらの戦略を思い描いたりする。
大部分が妄想で終わってしまうのだけども、100の妄想のうちの1つでも具現化できて思い通りの過程と結果が得られると、何とも言えない爽快感が味わえるもんだ。

幸いなことに、今までに退路を断って行動を起こさなくてはならない状況まで追い込まれた経験はほとんどない。
つまり、命を削るような思いをして、戦略を立てたことがあまりないのだ。
どうも緊張感がない、こんなものは戦略ではなくただ思いついただけのことを並べているだけだ!
こんな具合に自己嫌悪に陥った時に、古戦場に足を運ぶ。

ランチェスター戦略だってなんだって、戦闘理論や兵法を応用して、経営学に結びつけているわけで、私みたいな経営者は山ほどいると思う。

愛知県新城市の長篠に行ってきた。
織田信長と徳川家康の連合軍38000人と武田勝頼軍15000人がぶつかり合い、武田家滅亡のきっかけとなった長篠・設楽ヶ原の戦いがあった場所である。

長篠城址には、両軍の布陣の説明図があり、否が応でも440年前の情景が思い浮かんでくる。
城主・奥平貞昌軍500人が長篠城に立てこもり、周囲を武田軍15000人が取り囲む。
あと数日で城が落城する状況に陥った貞昌は、家臣の鳥居強右衛門を岡崎城にいる家康の元に走らせた。

鳥居強右衛門は敵に囲まれた中、見事に包囲網を破り、家康に援軍の要請を行った。
信長と家康の確約を得た鳥居強右衛門はこの朗報を一日でも早く長篠城に伝えようと来た道を戻る。

援軍の知らせを聞けば、自軍の兵は活気を取り戻して、粘ることができる。
しかし、城にたどり着く前に鳥居強右衛門は武田軍に捕まってしまうことになる。
武田側は鳥居強右衛門に「援軍は来ないと叫べ。偽りの情報を伝えれば、助命する」と取引を仕掛ける。
鳥居強右衛門はその誘いに乗った振りをして、場内に向かって「援軍は二、三日で来る。それまでの辛抱だ」と真逆なことを叫んだのだ。

結果、長篠城内から見える場所で鳥居強右衛門は身体を逆さにして磔にされ、処刑された。
この死を無駄にしまい、援軍は来ると長篠城内の士気が上がり、織田・徳川連合軍が到着するまで落城はせず、勝利したのであった。

このような社員がいればと経営者の誰しもが思うことだろう。
このような社員がいてその活躍があって、戦略が生まれ、実行されたときに思い通りの結果が得られるのだ。
440年前の鬼気迫る命がけの人々の動きに触れることで、活力が湧いた今日この頃であった。

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